日立のエンジニアを辞めた理由
- 7 日前
- 読了時間: 6分
こんにちは。すがじんです。
まずはご案内です。
明日は、100人チャネリングマラソンのライブを
おふたりの方と行います。
「ローカル脳」と「クラウド脳」が
つながる瞬間を
ぜひ見に来てくださいね。
5/20(水)13:00〜
大学客員准教授・フリーアナウンサー
浮ヶ谷 美穂さん
チャネリくんYouTube
5/20(水)17:30〜
natural hair pure green
オーナースタイリスト
小田島 宏さん
チャネリくんYouTube
本日は 「日立のエンジニアを辞めた理由」
についてお話しします。
僕の最初のキャリアは、
日立ハイテクノロジーズでした。
元・日立製作所の計測器事業部です。
東大の工学部、大学院を出て、
水戸駅の一個先、勝田駅にある工場へ。
なぜ日立を選んだのか。
きっかけは、
リクルーターだった野口さんとの出会いでした。
めちゃくちゃフランクで、
笑顔が素敵なおじさんでした。
でも、本質的な理由は、
もっと深いところにあります。
僕は3歳から6歳まで
シンガポールに住み、
10歳から14歳までは
フィリピン・マニラに住んでいました。
そこで見た日本が、
本当にかっこよかったんです。
日本車が走り回っていて、
どこへ行っても日本製品が並んでいた。
街の至るところに
「Made in Japan」があった。
戦争で占領されていたはずの
国の人たちが、
それでも日本人に
リスペクトを向けてくれていたんです。
遠足で日本軍の遺跡を訪れた時、
フィリピンの友人たちが言いました。
「日本って、すごいよね」
小学校6年生だった僕には、
その意味がまだよくわかりませんでした。
でも父親が教えてくれたんです。
ODA(政府開発援助)などで
日本の先人たちが
戦後、占領した国々のために
インフラを作り続けてきたことを。
その話を聞いた時、
僕は日本の製造業に憧れました。
物を作ることで、
世界に貢献できる。
そんな仕事がしたいと思ったんです。
14歳で帰国し、
初めて日本に降り立った時の感動は、
今でも覚えています。
安全で、便利で、美味しい。
「こんな国があるんだ」と、
本当に驚きました。
でも同時に、
満員電車の中で見た
大人たちの目が、
どこか虚ろに見えたんです。
学校では、
板書とテストの点数が
すべてみたいな空気がありました。
「あれ……?」
そんな違和感がありました。
そして大学生になった頃、
ソニー、パナソニック、
シャープ、東芝、日立が、
サムスンにどんどん抜かれていく姿を見ました。
欧米に追いつけ、追い越せで
世界トップに躍り出た日本が、
その先、
どこへ向かえばいいかわからなくなっている。
そんな感覚がありました。
受験は、
与えられた問いに答える世界です。
でも、自分で問いを立てることは、
ほとんど教わらない。
東大も、ある意味そうでした。
優秀な人材を輩出する場所ではある。
でも結局は、
誰かが作った問いに
答え続ける構造でもある。
その課題意識を抱えたまま、
僕は日立の門を叩きました。
入社して最初の工場見学。
あの感動は、今でも忘れられません。
発電所のバカでかいタービンが
目の前に並んでいた。
「こんなもの、人間が作れるのか」と。
しかも、
タービンそのものだけじゃない。
タービンを作る
設備を作れる人がいる。
その設備を設計できる人がいる。
それを管理できる人がいる。
そういう人たちが、
黙々と役割分担しながら
社会を動かしている。
鳥肌が立ちました。
創業者の小平浪平さんは、
海外から輸入していたモーターを
「国内で作れないか」という
ひとつの問いから会社を始めました。
その問いが、
グループ30万人規模の企業になった。
富を生み出し、
それを配分できる仕組みを作った。
その偉大さに、
心から感動しました。
創業者へのリスペクトは、
今も変わりません。
でも同時に、
課題も見えてきました。
飲み会で、
上司と部下の悪口を言い合う。
15分で終わる会議を、
2時間かけてやる。
自分が働いている時間を、
誰かがお金を払ってくれている。
その感覚が薄い人も、
少なくなかったです。
半導体工場のクライアント先で
トラブル対応をして戻ってくる。
現場には、
競合差別化のヒントになる
顧客情報が山ほどある。
でも、それを
価値提案に変えていく動きが、
なかなか生まれない。
宝の山を前に、
みんな素通りしているような感覚でした。
東大卒というだけで
目をつけられて、
「お前、税金で何を勉強してきたんだ」
と嫌味を言われたこともあります。
もちろん、
阪大や早大出身の
本当に優秀な先輩方でした。
でも、そういう場面に触れるたびに、
人間のエゴのようなものを
感じていました。
3年3ヶ月が経った頃、
自分に問いかけました。
「この組織を、自分は変えられるのか」
答えは、すぐには出ませんでした。
会議の進め方を変えても、
翌月には元に戻る。
設計ナレッジや
暗黙知の形式知化を提案しても、
なかなか浸透しない。
大きな組織には、
元に戻ろうとする力があります。
物理学でいう
「慣性の法則(イナーシャ)」です。
それなりに昇進しながら
変えていくことはできたと思います。
でも、根本から変え切れるイメージが
持てませんでした。
もし日立に残っていたら、
大谷翔平ばりの
「エンジニア兼マネジメント」の
二刀流キャリアを作って、
グローバル競合を圧倒する製品を
開発していた気もします(笑)
でも、僕は別の道を選びました。
直接のきっかけは、
第一子の誕生でした。
僕もワイフも、
通勤1時間半。
保育園から
「熱が出ました」と連絡が来ても、
すぐ迎えに行けない。
だから、
ワイフの実家近くへ引っ越し
そのために転職しました。
それがトリガーでした。
そして僕は、
「組織を変えられるプロ」
になろうと思いました。
だから、
マッキンゼーやBCGのような
戦略コンサルではなく、
メーカーの研究開発・設計開発に特化した
コンサル会社へ行きました。
ほぼピンポイントでした。
そこ以外へ行く気が、
ほとんどなかったのです。
組織を変えるというのは、
単にルールや仕組みを変えるだけではありません。
コミュニケーションや
リーダーシップ研修だけでも足りない。
どの組織変革コンサルにも、
足りないひとつのピースがあると
感じていました。
それは、
「個人が自分事として変わること」
です。
やり方だけじゃなく、
あり方そのものが変わること。
これが、本当に難しいのです。
「政治家が変えてくれるはず」
「塾に通わせれば子どもが変わる」
そんな“他責”の構造とも、
どこか通じている気がしています。
僕が退職を申し出た時、
直属の上司が言いました。
「印鑑、押したくねーよ」
高卒で、8歳上の先輩でした。
ちょっと涙目だったので
僕も、涙目になりました。
フランクに接してくれた、
僕の最初の上司でした。
最後に、
その方や周りの方々が
こんな言葉をくれました。
「菅ちゃんなら、
日立を変えてくれると思ってた」
「期待がでかい」
その言葉を、
今でも思い出します。
あの時、
背中に乗せてもらった期待が、
今の自分を動かしている気がするんです。
「こんなところで、
くすぶってる場合じゃない」と。
今回の内容を読んで
何か感じたことがあれば、
ぜひ末尾のフォームでお聞かせくださいね。
あなただけの正解へ。
すがじん
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